「で、結局どうするんだ?今日のライヴは」
集会が終わり、教室へ戻ってきた竜彦は机の上に突っ伏していると、克俊に声を掛けられる。彼も、大体の話は知っているらしい。ちなみに、当の話を持ってきた張本人はトイレに行くとか言って消えて、未だ戻ってきてはいない。
「どうするかって言われてもなぁ・・・」
「お前がそういうってことは、行く気はあるってことか?」
「・・・」
確かに、竜彦は迷っていた。体育館にいたときと同じ思考を繰り返している。ただ、それをわざわざ克俊に言う気にはなれなかったが。
無言の竜彦に、いつの間にか側に来ていた昌平が能天気な調子で言う。
「行ってみたら。迷ったら行くんだよ、取り敢えず」
「・・・他人事みたいに言うなよ」
「だって他人事だし」
煮え切らない竜彦の苛立ちの言葉に、昌平はそう言って二カッと歯を見せて笑う。友人の見事な開き直りに、竜彦は呆れて苦笑するしかなかった。けれど、苦笑しながらいちいち考えるのは面倒くさくなっていく自分に気付いた。このまま一寸流されてもいいか、竜彦はそう思った。
その時だった。これもまたいつの間にか側に来ていた聖一がやや怪訝そうに口を開く。
「ねぇ、先生遅くない?」
その言葉に克俊は教室を見回してみる。当然、山本教諭の姿は見えないし、クラスメートはあちこちで無秩序にお喋りしている。
「・・・確かに。山本ならもう来てもよさそうなもんじゃのう」
不思議そうな顔をする克俊。すでに、次のホームルームの開始時刻から十五分経過している。真面目な男である浩人は、何か突発事が起こったとしても、十分以上遅刻したことが無かった。
「別にええじゃろう。その分、退屈な時間が減るだけだし」
竜彦は特に関心を示さずに答える。
「・・・でもさ、よそのクラスにも先生来ていないみたいだよ」
聖一の言葉に、三人は隣のクラスの様子を注意して聞き耳を立ててみる。そちらも教師が来ていないらしく、ざわざわとしていた。
「大方、職員会が長引いてるんだよ。別に気にせんでもいいだろ」
「うん・・・けど、何か空気がおかしいって言うか・・・」
「どういうことだよ」
竜彦の問いに、聖一は少し俯いて答える。
「・・・嫌な予感がするんだ」
すると突然、ガラッと音をたてて教室のドアが開く。浩人が来たかと思って、教室中が静まり返る。しかし、ドアの向こうから現れたのは茶髪のハリネズミ頭だった。
「何だよ、達川か。」
ホッとしてお喋りを再開する級友たち。しかし、衛は神妙な面持ちで竜彦の方に歩いてくる。竜彦は、普段見せない親友の表情を怪訝に感じたが、さっき用意できた答えを告げる。
「衛、まぁ今回はお困りのようだから助けてやるよ」
それでも、衛は表情を変えない。竜彦もさすがにおかしいと感じた。
「衛・・・?一体どうした?」
竜彦の前に立った衛は口を開かない。
「・・・黙ったままじゃ分かんないぞ」
衛の様子がおかしいのは誰の目にも明らかだ。竜彦は先を促すが、衛はまだ口を開こうとしない。沈痛な表情のまま、その場で固まっていた。
「一体、どうしたっていうんだッ!」
その様子に苛立った竜彦は声を荒らげる。
すると、衛は重い口を漸く開いた
「――慰霊祭で事故が起こった」
たった一言。しかし、機械のように感情の欠落した衛の声が、それが只事ではないことを物語っていた。
「どういう・・・事だ・・・?」
衛に尋ねながら、竜彦の心の中で、黒いインキを水の中に一滴垂らした様に、嫌な予感が次第に拡がっていくのを感じていた。そして、衛のその表情は、それを無言で肯定していたのが直感で分かった。
「・・・さっき、山本とのぞみちゃんが話してたのを立ち聞きしただけだけど・・・交通事故で・・・――津田って名前、聞こえた」
衛が搾り出すように語った『津田』という言葉にその場にいた人間は、一瞬その場に凍りついた。彼らの表情から現実感が一気に消え失せた。すでに予想した答えではあったけれども、改めて言葉にして聞かされると、すぐには受け入れがたかった。
「・・・」
無言がその場を支配する中、
「竜彦ッ!!」
克俊の言葉が届く間も無く、竜彦は教室を飛び出していた。そして、衛もその後を追う。
何処をどう走ったのか。気がつくと荒い息を吐きながら職員室のドアの前に立っていた。竜彦は躊躇う事なくドアを開け放つ。
職員室では教師陣が総出で慌しく動き回っていた。興奮した口調で電話の応対をする者、教頭の席に集まって何事か相談している者、慌てて外へ飛び出していく者、そして何をすればいいのか分からず右往左往する者――
竜彦と衛は職員室の中へと入っていく。
「おいッ、大野!達川!もう授業時間始まっとるぞッ!!」
「・・・どこも授業やってないじゃないですか」
生活指導担当教諭の怒号を、竜彦は一言返しただけで無視した。ただ、浩人の姿を目指して、二人は歩みを止めない。
そして、二人は浩人の眼前に立った。
「先生・・・津田が――祥子が事故に遭ったって本当ですか?」
感情を殺した口調で竜彦は目の前の浩人に問う。
「・・・」
浩人は視線を逸らして、沈痛な顔をしたまま何も言わない。
「本当なんですかッ!」
竜彦は声を荒らげ、浩人に詰め寄る。
「答えろよッッ!!」
なおも答えない浩人に、竜彦はカッとなって彼の襟を掴み掛かった。
「大野ッ!やめなさい!!」
すかさず浩人の側にいたのぞみが、竜彦の腕を掴んで浩人から引き離した。竜彦は混乱しているのか、息を荒らげ、手を震わせていた。
浩人は、くしゃくしゃになった襟を正して、竜彦が落ち着いたのを見計ると、ただ一言心から言いにくそうに、伝えた。
「本当だ」
その言葉を聞いた瞬間、竜彦の視界から色彩が消えた――気がした。衛から同じ事を聞いていても、まだ彼の聞き間違いという可能性を僅かばかりでも信じることが出来た。しかし、今聞かされたその言葉は、丁寧口調でない浩人の素の言葉は、その微かな希望を打ち砕き、最悪の予感が現実であると決定してしまったのだ。
「・・・彼女の容態は、どうなんですか」
辛うじて衛が口を開くことが出来た。
「・・・救急車で病院に運ばれたとは聞いているけど・・・」
のぞみはそこで言葉を途切らせた。教師側も情報が錯綜しており、なかなか正確な情報は入ってきていなかった。浩人ものぞみも、二人と同じく状況のもどかしさに苛立っている様だった。
「何処です・・・病院は?」
竜彦は何とか言葉を音にして尋ねる。
「・・・」
浩人は暫し逡巡した挙句、
「・・・舟入病院だ」
竜彦は再び駆け出した。
周囲の先生の制止を振り切って。
今の竜彦には、ただ、走ることしか出来なかった。
薄暗い病院の廊下。
無機質なその空間の片隅の長椅子に、一組の中年の夫婦が寄り添って座っていた。見た感じ普通の夫婦なのであろう二人の表情には、今は、悲痛の色しか浮かんでいなかった。一体何時からこうしているのだろう。夫は妻の手をそっと握っていた。しかし、夫にしてみても今出来ることは、それしか無かったのだ。夫は己の無力感に唇を噛み締めた。その視線の先には、手術中と記されたランプが赤々と点灯していた。
突然、廊下がけたたましい足音で響く。
夫婦がその音のする方を見ると、一人の少年がこちらに向かって賭けて来るところだった。そして、少年は二人の前に辿り着くと、その場に座り込んで荒く息をしながら、呟く。
「おじさん・・・おばさん・・・」
二人とも、その少年に見覚えがあった。
「竜彦君・・・」
「来てくれたのか・・・しかし、学校は――」
二人は祥子の両親だった。普通なら来ることの出来ないはずの竜彦の登場に、少し驚いている様子だった。
「そんなことより、祥子は・・・祥子は大丈夫なんですかッ!?」
二人は、竜彦の問い掛けに俯いたままだった。
そして、祥子の父親が静かに口を開く。
「今、手術をしている・・・――助かる確率は、五分と五分らしい」
「――!!」
竜彦は二の句も告げずに、その場に立ち尽くす。祥子の母は、夫の言葉に触発されてそれまで堪えていた涙を溢れさせてしまう。他に誰もいない薄暗い空間に、ただ彼女の嗚咽のみが響き渡った。
「・・・一体、何があったんですか?」
自分自身でも驚く程、竜彦の声からは感情が失われていた。ただ、絶望の色彩しか浮かんでこなかった。
祥子の父は、淡々と、少しずつ話し始めた。自分たちが来るまで祥子に付き添っていた吹奏楽部の友人から伝え聞いた話だと、前置きをして――
――どれくらいそこに突っ立ていたのだろう。無情にも、『手術中』の赤々しい光は未だ消えない。
竜彦は祥子の父親から事の経緯を聞いて呆然としていた。
慰霊式典の後片付けも終わろうとしていた頃、体が思うように動けずに横断歩道で立ち往生になって車に轢かれそうになった老婆を助けようとして、自分も猛スピードで車が突っ込んでくる車道に飛び出し――間に合わず、二人とも車に轢かれたという。
先程、祥子が助けようとした老婆は亡くなり、祥子も医師の懸命の治療を受けているが、頭部を酷く打っているらしく、手術は難航していた。
誰も出てきそうに無い手術室のドアを、竜彦は覇気の無い目で見詰める。
自分たち以外誰もいない病院の廊下。ただ響くのは祥子の母の嗚咽。ただそこに居ることしか出来ない自分。もどかしさと無力感が容赦無く竜彦を締め付けた。
もう、これ以上この場所にいることが出来なかった。
ふらふらと立ち上がる竜彦。
「竜彦君――?」
「・・・」
祥子の父親に竜彦は何も応えず、二人の視界から姿を消した。
まだ、赤いランプは消えない。
どのくらい彷徨っただろうか。すでに夕闇が辺りを包んでいた。
気がつくと竜彦は平和大橋の袂、舟入女の慰霊碑の前に立っていた。事故現場と思しき横断歩道には、散乱したガラス片、警察のマーク、そして、夥しい血の跡が残されていた。慰霊式典で生徒や遺族や同窓生で賑わっていた朝とは違って、そこには自分以外誰一人としていなかった。聞こえてくるのは、背後の平和大通りを走る車のエンジン音だけ。同じ八月六日の筈なのに、朝と夜では広島の見せる姿はまるで違っていた。ただ、慰霊碑を彩る花束と色とりどりの折鶴が、朝の広島の名残を残していた。
竜彦は、無言で慰霊碑の前に立つ。三人の少女が寄り添っている石碑。左右の二人の少女は、死んでいった中央の少女を慰めているように思えた。それが、祥子の姿に重なる。祥子がその身を投げてまで助けようとした老婆は、原爆で死んだ女学生の母親であったという。竜彦は、死んだ少女を慰めていた少女が、一緒にこの世界から連れ去られていくという想像に捕らわれた。まるで、六十年前からの亡霊が祥子を絡め取っていくように――
どうして、祥子を連れて行くんだ?
もう、俺らと何も関係ないじゃないか。
頼むから、そこから消えてくれよ!!
「・・・」
竜彦は何も言わず、ただ怒りを身体中に浮かべてその石碑を睨み付けた。
怒り――その時、彼を一瞬支配したのは怒り、そしてその石碑に対する憎悪だった。慰霊祭があるから、ここにこんなものがあるから、ここで名も知らぬ女学生たちが勝手にくたばったから、祥子は――
その時の竜彦には、冷静に考え直す心の余裕は、無かった。
「ウワァァァァァッ!!!」
竜彦はあらん限りの大声で吼える。
彼を突き動かすのは、ただ衝動。
少女たちに捧げられた花を毟り取り、渾身の力で元安川に打ち捨てる。
生徒が――勿論自分も――折らされた折鶴の束を、片っ端から引き裂いていく。
その場の憎らしい全てを、壊してしまいたかった。
やる方の無い怒りをこの馬鹿げた風習への怒りに変えて、竜彦は大声を出して暴れた。祥子を轢いた車への怒りも、体力も無いくせに慰霊祭にのこのこやって来た老婆への怒りも、自分の命を粗末にした祥子への怒りも、何も出来ない自分への怒りも、全て。
「ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・」
荒い息を吐きながら、竜彦は手頃な石を手に取り――
「ウオォォォォォッ!!!」
ガッ!!
石碑の中央の少女に、小さな傷がつく。竜彦はもう一度石を振り上げ、下ろす
ガッ!!
さらに傷が増える。竜彦は再び殴りつける。
何度も何度も。
身体が疲れ果てて本能が止めてしまうまで、何度も。
そして、行為を終えた竜彦は、その石を石碑の後ろにある犠牲者名簿の碑に投げつけた。石は、鈍い音を立てて、その碑に当たって砕けた。
竜彦はその場に座り込んで、荒くなった息を整える。
その時、竜彦は地面にぽたぽたと雫が落ちていくに気付く。
初めて、彼は自分が泣いていることを知った。
「う、うぅ・・・」
竜彦の嗚咽は闇の中に暫し、響き渡った。
涙も枯れ果て、漸く熱くなった意識が冷めてくる。
「――ッ!!」
竜彦は目の前の光景に呆然とした。
ぐしゃぐしゃになった折鶴。
そこら中に散乱した花弁と葉。
そして、傷ついた祈りと鎮魂の碑――
竜彦は自分のしたことが信じられなかった。彼の意識から現実感が波のように引いていった。目の前の景色が、夢の中のワンシーンの様に次第にぼやけていく。
彼は死んだような眼で、ただ無残な光景を見た。その碑の中の三人の少女は、哀しそうな顔をして竜彦を見ていた、ような気がした。その瞳は、彼を責めているのか、哀れんでいるのか――
「・・・」
何も言えずに、竜彦は逃げるようにその場から離れていった。
慰霊碑の傍に、一人の少女の姿が浮かび上がる。おかっぱ頭のもんぺ姿をしたその少女は、まるで慰霊碑の中央の少女をそのまま現出させたような出で立ちだった。
「・・・」
彼女は竜彦の去って行った方を見据える。その瞳には、明らかに怒りに満ちていた。
「赦せない・・・」
少女は、意を決すると、彼が去っていった方へと動いていった。動いて――そう、歩いてはいなかった。少女は、地面から少し浮いた状態でゆっくりと動いていたのだ。その瞳は決して竜彦の姿を失う事無く・・・
少女が浮遊している道には誰もいないということは決してなかった。けれど、誰も彼女を気に止めてはいなかった。――いや、誰もその少女が存在しているのを認識していないようだった。前を歩く竜彦も、当然気付くことはなかった。